【西養寺】

 
 清澄山と号す。上小川町35番地(現在の東山2丁目11-35)にあり、袖裏雑記の元禄8年の条に従れば、本寺はもと西教寺末真盛派なりしが、寛永4年の頃、天台宗に改め、山門の末寺となり。後東叡山門主の末寺となれるにて、貞享2年上記の由来書によれば、本寺は越前府中天台宗真盛派五ケ寺の一にして、開山は僧盛学なり。七代真運は、前田利長の眷遇を受け、利長が越中守山・富山・高岡に歴徒せるとき、真運毎に従ひ移り、後ち金沢八坂に寺地を拝領して本寺を建立したれど、慶長17年今の處に代地を給はりて移転せりといふ。八代快慧は、天海の三高弟の一人にして、本山延暦寺地定院にありて、本寺を兼務し、宗義を天台宗に改めたり。因りて快慧を中興の開基とし、師僧天海は十五箇条目を付与し、加賀・能登・越中三ケ国天台宗寺院の触頭の事務を執らしめたりといふ。
 本寺の造営に関し、元禄3年加賀・能登・越中三国へ相対勧進をなせるにて、恐らく金沢に於る寄進奉加の嚆矢にして、改作所旧記に、「元禄3年8月、西養寺之住持、当地無縁之出家にて、自力を以て、寺造立難致に付、加越能奉加仕度旨出願、依之、東叡山報当衆迄、執政席より内談に及び、委細藩公之聴聞に達する處、奉加之儀、勝手次第之旨、被仰出」と載せ、年代摘要に、「卯辰西養寺造営に付、元禄3年加越能三州へ相対勧進之事あり、是金沢相対勧進の始なり」と載せたり。本寺は延實6年類焼し、後再び類焼にかかりき。
 本寺に塔司真教院あり。明治3年の比、廃したれど、門前に其遺跡ありといふ。
(稿本金沢市史より)




[興味の事柄へ]