【尾崎神社】

 
 尾崎神社は徳川家康を祀る。西町四番丁一番地(現在の丸の内5-5)に在り、もと東照宮と稱へ、俗に権現堂ともいふ。金澤城内北の丸即ち甚右衛門坂の高に在りき。
 初め加賀藩主前田光高東照宮を金澤城内に祀るに當り、寛永十七年十一月、酒井讃岐守を介し、将軍徳川家光に上申したるに、将軍許可したるに依り、十九年經榮を始め、二十年の秋、落成せしかば。村井兵部・佐藤三右衛門等を神靈の奉迎使として江戸へ參向せしめ、八月二十日東叡山の常照院・松壽院及び奉迎使一行等、供奉して江戸を発輿し、加賀石川郡佐那武(大野湊神社)の神主河崎権頭・同将監の兩人は、藩命により、上野の坂本より供奉して金澤に着御し、九月十七日常照院遷座式を勧めたりき。
 前田氏は常に社領百二十石を附し、明暦三年現米百五十石を寄附し、常照院これを収納せり。後には天台宗出雲寺等神勤せり。これより先、延寶八年市中失火して本社も亦危険を免れざりければ、社僧をして神體を出さしめ、尚横山大膳を火消の任に當らしめき。
 明治二年、神佛混淆を廃せられたれば、佛像佛器等を取除き、社僧出雲寺は復飾して西岡氏を稱し、東照宮の神職となり、復飾したる山伏十名は更に神役となり、各々米二十俵を賜はり、城地・社地との境界を立て、一般の神社となして、神官に引渡し、又神護寺の別當屋敷の名目及び山號寺號を廃し、致遠館と改稱して、英學の塾所となしたれど、幾もなく、藩廃せられて、西岡氏新に祠掌を拝命せり。
 同五年十一月、村社に列せられ、越えて七年六月、更に社號を尾崎神社と改稱せり。然るに社地はもと城地の郭内なればとて、陸軍省より移轉を交渉せられ、九年十月、代地を今の處に渡されて、新に社地に定め、同年十二月郷社に加列し、十一年七月、陸軍省より移轉料金六百圓を下渡せられたり。此年九月社殿移轉の工事落成したれば、二十八日遷座式を執行せりり。
 本社には、城内に鎮座したる時より、拝殿に三十六歌仙の額を掲ぐ。その筆者は傳はらさせれど、一説に、畫は藩主利常これを描き、山本源右衛門命を奉じて和歌を書せりとあれど、徴證なし。
(稿本金沢市史より)




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