安江神社は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・天御中主命を祀る。鍛治町一番地(現在の此花町11-27)に在り、社記に據れば、本社は天慶二年河内の譽田より勤請せりといひ。一説には、貞元中の勧請にかかれりともいふ。安元二年石川郡安江の郷士安江次郎盛高、本社末社を再興したれど、永世三年加賀・能登の一向宗徒亂を作ししとき、破却せられたれば、天文中再興せり。
文禄・慶長の頃、上安江村は今の安江町の地に在り。社殿は後の加賀藩士深見氏の邸地に在りたれど、市街を取擴められたるとき、社地は村落と共に今の處に移轉せりといふ。其移轉の年代は傳はらざれど、深見氏の邸は、今の高岡町下薮ノ内に在りたるにて、今猶老いたる椎など兩三株繁茂し、これを社木の遺なりといふ。
本社はもと金澤五社の一にして、藩主前田氏の歸依厚く、或は病気の平癒ならしめ、或は命じて火防を祈念せしめ、或は疫病の消散を祈祷せしめなどし、明治二年二月二十日、藩主齊泰の子僧喜千(利武)本社へ社參のとき、當日道筋の寺庵に高煙を揚げしめず、又寺社境内の高處へ人の登るを禁じたるが如きは、異例に属とすいふ。
明治三年二月、金澤藩庶政を改革し、加賀の白山比め神社、能登の気多大社、越中の雄山神社等五大社寺を除くの外、他の社寺にて祈祷するの例を廃せしかど、本社及豊國神社のみは、舊の如く祈祷を修すこととなれり。
本社は安江八幡宮・鍛冶八幡宮などと呼び、和漢三才圖會に「八幡宮金澤在、後奈良院天文年中、請之勧」とあるは、蓋しその再興したるときをいへるにて、加賀國式内等舊社記に「安江八幡神社、鞍月庄安江村鎮座、舊社也」と見えたり。
明治五年十一月、郷社に列し、越えて七年六月、安江神社と改稱し、四十年彦三六番丁の無格社水天宮を合祀せり。
(稿本金沢市史より) |