養老元年(717)僧泰澄(たいちょう)が、はじめて白山に登拝してから後は、朝野の信仰益々篤く、修験道場として後盛を極め「白山衆徒三千を数う」と称せられました。
その後、文明十二年(1480)の大火によって四十有余の堂塔伽藍が悉く烏有に帰しましたので、末社三ノ宮の鎮座地である現在地に遷られて今日に至りました。
明治維新の後は「下白山」を本社、「白山天嶺(はくさんてんれい)」を奥宮とし、"国幣中社"として国家から特別の重い待遇を受けましたが、終戦後の今日では、全国に奉斎されている三千有余の白山神社の総本宮として、"白山信仰"の中心をなしております。
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