【宇多須神社】

 
 宇多須神社は高皇産靈命・武甕槌男命・大國魂命・市杵嶋姫命・崇徳天皇、大山祗命・八重言代主命を祀る。八幡町二十七番地の一(現在の東山1丁目30-8)に在るがゆゑに、俗に卯辰毘沙門と呼ぶ。  享保十六年の縁起に「この多門天社は、古來卯辰村領の鎮守産土神にして、創建は靈龜中とも養老中ともいふ。もと今の社地よりも山奥十町許、南の方深山の中に鎮座し、その遺蹟を堂の庭、御祭田の井、蛇が谷内など呼べり。昔は社殿多く建ち並びてありしかど、元弘・建武の兵亂に炎上し、後今の處に移轉せるにて、其頃卯辰の村落は、今の卯辰町の地に在りき。祭神は多門天を中央とし、左は辨財天、右は大黒天にして、この三像を一社に祭れり」との趣を載せる。  社記に、「養老中、淺野川の邊に小丘の中より得たる古鏡の裏面に、卯と辰との模様あれば、これを卯辰神となし、卯辰山字一本松の處にて鎮座せるにて、古老は本社を卯辰治田多門天と稱し、鳥居に卯辰總社正一位治田多門天の額を掲げたりといふ」と載せたり、相轉ふ。  本社が一本松の下に在りしとき、社地を距る遠きにより、慶長中、旅所を卯辰八幡の境内神主屋敷に建築し、毎年の秋祭に卯辰八幡の神官供奉して、旅所へ神幸し、これを御旅と稱へ、春季祭に歸座ありたれば、旅所もおのづから一社の如くなりぬ。  明治六年卯辰八幡宮を金谷殿の址に移し、尾山神社と改稱したれば、卯辰八幡の神主厚見氏、さらに本社の神官となり、十一年八月、卯辰八幡の舊社地を本社附属地とし、卯辰八幡の舊神殿を破却して、更に社殿を造営し、十月神渡の儀式を行ひ、本社の神靈を勧請し、卯辰山の本名宇多須なるに因み、宇多須神社と改稱せり。  明治二十三年一月、火を失したれば、二十五年十月、再造せり。此より先、明治五年十一月、村社に列せられ、三十五年三月、縣社となる。
(稿本金沢市史より)




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